おしゃべりしようよ——と。
そんなふうに、言ったのだった。
そんなふうに言って、彼女は笑顔をこちらに向ける。
おさげの三つ編みに、落ち着いた色の眼鏡。現代日本では絶滅危惧種に指定されている、典型的な委員長。シワひとつ無い制服に、きっちりとアイロンがけされたスカーフをむすんで、その折り目正しさも、性格を表しているかのよう。
しかし。彼女、羽川翼が、けっしてその見た目から想像されるだけの単なる委員長ではないことを、僕は知っている。
そして、その清楚な上着やスカートに隠された下着も、僕は知っている。
……って、いやいやいや。
それは、けっしてそういう意味ではなく、といいながら「そういう意味」とはどういう意味かを、あえて自分の口から説明しようなどという気はさらさら無いのだけれど。
しかし、誤解を避けるためにあらかじめ言っておくならば、今の僕——阿良々木暦には、この羽川翼以外に、「そういう意味」の何やかやがあってもおかしくはないはずの、いわゆる「恋人」という存在がいるというのも、客観的に見て事実なのではあるが——。それにしても。
そういう事実を目の前にした上でも。
彼女と僕の関係は、特殊で、特異で、特別だった。
この春休み。
僕と羽川が、ある「一連の事件」に巻き込まれた、あの季節。
あのときにも羽川は、「おしゃべりしようよ」と、そんなふうに僕に言ったことがあった。ひょっとしたらそれは、それこそが、その事件のきっかけにもなっていたのかもしれない。
そんなことを、僕は思い出していた。
あるいは、羽川のほうも、そんなことを思い出しての、その言葉なのかもしれなかった。
「とは言ってもな……」
ただ今、放課後。
間近に迫った文化祭の準備のため、クラス委員長(もちろん、羽川だ)と、副委員長(驚いたことに、僕だった)の二人は、教室で居残り中なのだった。
自分の席について、クラス内のアンケートやら生徒会に提出する企画書といった書類の山を丁寧に仕分けしている羽川。僕はといえば、自分の席は少し離れているので、羽川の前の席のよく知らない生徒(僕にとって、クラスメイトの八割はよく知らない奴だ)の席を借りて、背もたれを前にして羽川と向かい合っている。まあ、客観的に言っても主観的に見ても、あまり働いているとは言えなかった。
「まだ仕事残ってるだろ? おしゃべりなんかするより、早く片づけて帰りたいんじゃないのか?」
「ん? 大丈夫だよ。あとは企画書をまとめるだけだから。ほとんど単純作業だからねー。話しながらでも進められるよ。ブラインドタッチみたいなもん」
「それはずいぶん違うと思うが……。手書きだし」
お前は聖徳太子か。
「それもちょっと違うと思うけど。一度に七人の話を聞き分けられたんだったっけ? でも、それが本当だったら聖徳さんの側近の人も大変だよね。会議の時なんか、みんながいっせいにしゃべっちゃって、聖徳さんはいいけど、まわりの人は全然聞き取れなくて苦労したんじゃないかな」
「それは珍しい観点だな……」
ついでに、聖徳太子を聖徳さんとよぶ奴も初めて聞いた。
「だって、どっちにしろ当時の名前じゃないんだよ? 厩戸さんってよぶのも変だし」
「……厩戸って、聖徳太子のことだったのか?」
「…………。阿良々木くん、日本史の授業、ちゃんと受けてた?」
なんだか、すごい呆れられた表情をされた。
「別にいいじゃないか……そんな昔のこと」
「授業自体は、つい最近だったと思うけど」
うう。
「なんだか羽川と話してると、すぐ勉強の話になるな……」
「そう? そんなこと無いと思うけど。やっぱり、高校生にとっていちばん身近な話題だからかな?」
優等生め。ああ、八九寺との楽しい会話がなつかしい。
「じゃあ、阿良々木くんが楽しいと思うお話してよ」
「僕が? ……うーん」
「最近、気になってることとか」
「気になってること……。そうだな、地球温暖化現象はどこまで進むのだろうか」
「お。そっか、阿良々木くんもちゃんと考えてるんだ」
「この日本に、四季というものはいつまで存在できるのだろうか」
「うんうん」
「もし一年中夏の気候になったら、ずっと夏服のままなのだろうか。しかし反面、衣替えという美しい風習が失われてしまうのは寂しい気もする」
「…………」
「夏服のスカートの、生地が透けているのに見えないというあの不思議な機構も、一年中思いをめぐらせれば答えが見つかるのではないだろうか」
「……………………」
あれ。
今度は、すごいジト目で見られた。
「阿良々木くんって、ホントにそういうことばっかり考えてるんだ」
少し椅子を引かれた。
「そういえば、春休みの時も、私のスカートの裏地が気になるとか言ってたよね……」
そ、それは誤解だ……!
たしかにあのときはそんなことを言った記憶があるけれど、それはあの場を乗り切るためのとっさの言い訳で、今だから言うとあのときはスカートの裏地よりスカートの中身のほうが気になっていました!
「だから、そっちのほうが変態だよね……」
さらに椅子を引かれた。
そんなに引いたら、さすがに文字が書きづらいだろうと思うのだが。
っていうか、いつの間にか、すっかり書類を書く手は止まっていた。
こういうのを、気まずい沈黙と言わずして、何と言おうか。
おしゃべりしようよ、とか言いだしたのはそっちのくせに。
「あ、あの、羽川さん? な、何か手伝いましょうか」
たまりかねて、口を開く僕。っていうか、なんだか卑屈になってしまった。
羽川に対して、そんな態度は不要だとは思うのだが、戦場ヶ原とつき合いだしてから、この方面のスキルが徐々に上がってきている僕だった。
……我ながら嫌なスキルを獲得している。
「……別に、いいけど」
そんな僕を見て、よけい不機嫌そうな表情になる羽川。
「いや、でも、いちおう僕だって副委員長なのに、あんまり働いてないし」
きみを更生させてみせます——そんなことを言って、僕を副委員長に任命したのは、他ならぬ羽川だった。
「うーん。じゃあさ、これ、私が書くつもりだったけど、阿良々木くんが文章、書いて」
「え」
と、書類を僕のほうに向き直してくる。
「いや……自分から言い出しておいて何だけど、それは僕には、ちょっと荷が重いかも」
「えっ!?」
「いや、僕ってさ、消しゴムより重いもの持てないからさ」
「そんな高校生いないでしょ! っていうか、エンピツ持てないで消しゴム持てても意味ないじゃない!」
「しかもキン消し」
「勉強する気ゼロだね、きみはっ!!」
よし、会話の調子が戻った。
「もう……。だいじょうぶ、文章の中身は私が考えるからさ。阿良々木くんは私が読み上げたのを、そのまま清書してくれればいいから」
「清書って……」
さっきのは戯言にしても、僕はあまり字の巧いほうではない。むしろ、僕が中身を考えて、羽川に書いてもらうほうがいいのではないだろうか。
「ダメダメ、それじゃ、阿良々木くんのセリフばっかり増えちゃうじゃない。アニメ化のことを考えたら、ここは逆じゃなくちゃ」
「なんでお前までアニメ化のことを気にしてるんだよ!」
「私的には、水橋かおりさん希望」
「キャストまで考えてるのかよ!!」
それにしても、羽川が水橋かおりねぇ……。
「悪くはないけど——僕の感覚だと、羽川は川澄綾子って感じなんだけどな」
「ふうん? そうかなー。それもちょっと嬉しいけど。でも、どっちかというと、私より戦場ヶ原さんのほうが合うんじゃない?」
「戦場ヶ原が?」
それは——想像できなくもないけど。
「じゃあ阿良々木くんは能登麻美子さんだね」
「それはいろいろかぶるからやめてくれ」
その場合、羽川に斎藤千和は合わんと思うが。
「でもさ、阿良々木くんの携帯って京セラなんだよね」
「なんだよ急に」
「私のは iPhone 3G だったりして」
「……時代設定がきわどいところだが、して、その話のオチは?」
「最初と最後のアルファベットを取ると?」
「……もういい、わかったよ!」
それで戦場ヶ原が大原さやかで、僕が福山潤ですか。
「あははー。まあ、こういう話ができるのも、今だけだからねー。青春の特権だよ」
その言い方はどうかと思ったが、たしかに今しかできないことには違いない。
——っていうか、どれかひとつくらい実現しそうで怖い。
「さてと。じゃあ、そういうことで、阿良々木くん。いいよね? 私の言うとおりに書いてって」
「何がそういうことでかは判らないけど……まあ、いいよ」
そうして、羽川は。
まるで本当に声優さんがアフレコしているような声で。
流暢に、流麗に。
言葉を紡ぎはじめた。
「——文化祭の意義とは、すなわち、学園生活という平凡で淡々とした日常を、別のものへと変化させることである」
「——ここでいう変化とは、まったく別のものへと変えてしまうことではなく、たとえば、固体が温度上昇により液体に、そして気体へと変化するように、同じものでありながら、その様相を変えるという意味である」
「——従って、『おばけやしき』といういっけんありふれたテーマも、それを演じる側も生徒であり、楽しむ側も生徒であるという一点をもって、日常を非日常へと変化させる祝祭の場にふさわしい意味を与えられるのである」
そんな彼女の声を。
僕は一心不乱に書き留める。
聖徳太子のように、大勢の人の声を一度に聞くことなんて出来ないけど。
彼女の、羽川翼ひとりの声なら、耳を澄ませられる。
受け止めることができるのだから。
——そう。
これは、なんてことない日常の風景。
このまま、二度と思い出すことがないかもしれない。
本来ならば、物語として語られる類のものではない、
特異点でも、怪異譚でもない、
ドラマチックな展開など何一つない、
ごく普通の、ただの一日だった。
「——でもね、阿良々木くん」
「……え?」
「本当は、こんな日常だって、一瞬でドラマチックなものに変えてしまえるんだよ」
何を、言って。
「ほら——たとえば、こうやって」
そう言って彼女は。
自分の制服のスカーフに手を伸ばし。
それをほどいた。
「…………あの、羽川さん?」
そして、スカートに入れていた裾を出し、ボタンを一つ一つ外しはじめた。
「……って! なんか既視感!」
しかし。あのときは冬服だったから中にブラウスを着ていたが。
この季節、これはその、つまり。
「…………」
「どうせ阿良々木くんは、いつも、こんなことばかり考えてるんでしょ?」
そう言って彼女は、少し上目遣いで、眼鏡の奥に恥じらいの表情を見せる。
「は、はね、かわ……」
「…………なぁに、やってるのかしら? おふたりさん」
と。
その声で、我に返る僕。
「……あ……」
「…………」
声も出せず、入口のほうを振り返る二人。
戦場ヶ原ひたぎが、そこにいた。
「せ、戦場ヶ原……先に帰ったんじゃ?」
「ちょっと後輩に用があって、残ってたのよ。校庭から見たらまだ教室の灯りがついてたから来てみれば……。阿良々木くん、ねぇ、貴方の彼女は、いったい誰だったかしら?」
「い、いやその、これは、なんていうか……」
思わず、羽川のほうに視線を逸らす僕。
「う、うん。たとえて言うなら、日常をドラマチックなものに変える実験、みたいな?」
まったく説得力のない言い訳ありがとう!
「はぁ!? 何言ってんのよ、この泥棒猫!」
ドラマチックっていうか、昼ドラだった。
しかも猫って……。かつて羽川翼の身に降りかかった「怪異」を思えば、笑うに笑えない台詞だった。
っていうか笑ってる場合じゃねぇよ。
「あっ、こら待ちなさい!」
戦場ヶ原の怒声を背に、教室を飛び出す僕と羽川。
と、まあ、
そんな感じで、
僕達の日常は、続いていた。
(終)
2008.07.01 by plateau