人生がゲームだったら、と思ったことはあるだろうか。
ここでいうゲームとは、格闘ゲームだとか、剣と魔法の世界を舞台にした RPG だとかではなく、もちろん最近流行の脳を鍛える系のパズルゲームでもない。あくまで、僕達のいる日常世界を基調としたシミュレーションゲームのことだ。
——いや、もっと直截的に言ってしまおう。学園恋愛シミュレーションゲーム、いわゆるギャルゲーの世界に、身を置いてみたい——そう想像したことはないだろうか。
何の取り柄もない平凡な少年が、ある日突然、特別な力に目覚めたり、空から女の子が降ってきたり、十二人の妹ができたり、眼鏡っ娘委員長とらぶらぶになったり……。
そんな非現実的な世界を夢想したりしたことはないだろうか。
しかし——。
僕、阿良々木暦は思う。
現実に、ゲームでも何でもなく、ごく普通の高校生だったはずの僕が、ある日突然、「怪異」に行き逢い。
空(階段の上)から女の子が降ってきて。
それから——まあ、慇懃無礼な小学生だの百合な後輩だの妹の友達だのに囲まれるという、冗談みたいな経験をしてみて。
そんな、ゲームみたいな世界に憧れるのは、ゲームみたいな世界に生きていない人間だけだ、と。
そう、強く思う。
ゲームみたいな世界にいながら、ゲームの主人公ではない僕は、
当然のことながら、リセットスイッチも持っていない。
そんな中で、生きていかなければいけない。
それが僕の物語だった。
——そんなことを、今更ながらに思うきっかけとなったのは、ある日の放課後、ひとりの後輩と交わした、些細な会話だった。
大学受験の足音が、日に日に大きくなっていく頃。受験生である僕達は、生徒指導室で、面接の練習を受けていた。
日替りで数人が放課後に集められ、一人一人模擬面接を受ける。僕の番は、今日の最後から二番目。最後は、僕と同じ大学を受ける戦場ヶ原ひたぎだった。……と言うより、僕のほうが戦場ヶ原と同じ大学を受ける、と言ったほうが正確だろう。成績の面でも、因果関係の順逆からしても。
先に模擬面接を終えた僕は、生徒指導室を後にすると、自分の教室へと戻った。
そこで、一人の見知った女子生徒の姿を認める。
小柄な体躯ながら、精悍さが伺える背中。スポーツバッグを右肩にかけ、左手首にはぐるぐる巻きの包帯。
「……神原後輩」
「やあ、阿良々木先輩」
振り返って快活な笑顔を僕に向けるのは、一年下の神原駿河。かつて、この直江津高校の弱小バスケットボール部を全国大会にまで導き、引退した今でも、根強い人気を誇る学園のスター。
そして。
僕や戦場ヶ原と同様、怪異に行き逢った一人であった。
「どうしたんだ神原、こんな放課後に、三年の教室にまで来て。戦場ヶ原に用か?」
戦場ヶ原の机に手をかけている神原を見て、そう言う僕。
神原と戦場ヶ原は、中学時代からの知り合い……神原曰く、「ヴァルハラコンビ」の異名も取った仲なのだ。事情があって、一時は交流を絶っていた二人だったが、今はまた、その旧交を深めあっている。
「うむ。さすがだな阿良々木先輩。いつもながらの見事な洞察力だ。まさに千里眼とは阿良々木先輩のためにある言葉と言えよう。いや、千などという単位では不足だ、文字通り桁が違う。万里眼、もとい億里眼という言葉でもって褒め称えたいものだ」
「いや、あのな……」
相変わらず、勝手に人を高く評価する奴だった。
「まったく、私がこの教室に来ただけで、私が戦場ヶ原先輩にお勧めのBL小説を持ってきたことを見抜くとはさすがだ」
「見抜けるかそんなもん!!」
「……ふむ? すると、私としては朝一番にでも渡したくてたまらなかったのだが、そうすると授業中に気になって集中できなくなるかもしれないという気遣いをもって、こうして放課後まで我慢したというのも」
「判らねぇよ! 変なとこに気を遣ってんじゃねえ!」
BL小説に気が散る戦場ヶ原というのも想像を絶するものではあるが。
「そうなのか……。まあ、私としては、放課後に戦場ヶ原先輩の机に恋文を忍ばせていたと思われてさえいなければ良いのだが」
「そんなことも思わねぇよ!」
恋文って。
「あまつさえ、それをその告白相手の親友に見られてしまって、さあ大変」
「なんだそのどっかで聞いたようなシチュエーション!?」
「まあ、女子はそんな小説かマンガのような恋愛を夢見るものなのだ」
「それはそうなのかもしれないけど、お前の話を聞いてると恋愛の対象が女性同士にしか思えないんだが」
「いや、そんなことはないぞ。男女間の恋愛でも、まったく構わない」
構わないって言うことは、やっぱり女性同士が先にあるんじゃないかという気もするが。
「恋愛ものというのは、いつの時代もマンガや小説の定番だからな。最近では、恋愛シミュレーションゲームというものまである。阿良々木先輩ほどの人物なら、きっと恋愛シミュレーションゲームというものにも造詣が深いのだろうが」
「……なんか気に障る言い方だな、それ!」
「む。気障な言い方だっただろうか」
「キザじゃねえよ!」
熟語にすると意味が全然変わる。
「阿良々木先輩がギャルゲーという新世界の神となる日も近い」
「勝手に人をゴッド呼ばわりするな! 俺の声優さんは沢城みゆきさんなのかよ!?」
それはそれで、とても嬉しいのですが。
「しかし阿良々木先輩、私も多少はそういうゲームをたしなむのだが、どうも引っかかりを憶えることが多いのだ。何というか、現実感に乏しいように思えて」
「お前や僕がそんなこと言っても説得力ないけどな……」
猿に吸血鬼。
現実感の欠片もねえ。
「ふむ。しかし現実は現実だろう。ゲームの世界は、それ以上に不思議なことが多いのだ」
「ふうん……たとえば?」
「たとえば。何故、ゲームの中では、ほとんど授業を受けている描写がないのだ?」
「…………」
それは……。
それを言ったらおしまいだろう……!
「そ、そりゃ、ゲームの中でまで授業を受けたいなんてプレーヤがいないからだろ」
それこそ、脳を鍛える系のゲームなら別だろうけど。
「……ふうむ、そういうものなのか。加えて疑問なのは、どうして一日が24時間ではなく、あっという間に季節が過ぎていくのだろうかと」
「お前はシミュレーションゲームに向いてないよ!」
お約束というものを勉強しろ。
「あと一つ、どうしても気になることがあってだな」
「何だ?」
「何故、どのキャラも制服を着ているのに、ゲームの最初に全員18歳以上だと」
「もう黙れ!!!」
っていうか、お前18歳未満だろうが。
そんなゲームやってんじゃねえ。
「——まったく。大体、現実がゲームと違うなんて、そんなの当たり前だろ。よく、何か事件が起きると、現実とゲームの区別がついていないなんて知ったようなことを言う大人がいるけど……そんな、ゲームとごっちゃになるほど、この現実は、出来が良くない」
そう。
現実がゲームだというのなら、それはとても出来の悪いゲーム。
やり直しも、セーブも不可能で、リセットスイッチも——存在しない。
「阿良々木先輩——」
思わず、神妙になってしまう僕。そんな僕を、固い表情で見つめる神原。そんな彼女の姿を視界に捉え、
「……まあ、でも、いつだったか、僕がギャルゲーの主人公だったらなんてこと言ってた奴もいたけどな。自分が攻略対象になるのは御免だとも言ってたけど」
と、冗談っぽくまとめた。
「……ほう? それは一体、どんな人なのだ? 攻略対象ということは、さぞかし美少女なのだろうな?」
食いついてきた!
そう言えばこいつ、まだ八九寺とは顔を合わせたことがないんだっけ。別ルートだと接点がないというのも、またギャルゲーっぽい気もしなくもないとか思いつつ。
「あ……いや、誰だっけ。悪い、ちょっと忘れちゃった」
なんとなく、こいつの前で八九寺の名前を出すのはためらわれたので、誤魔化しておく。
「そうか」
と、あからさまに肩を落とす神原。八九寺、お前の貞操は守ってやったぞ。
「まあ、私だったら、真っ先に戦場ヶ原先輩を攻略するがな」
「何でお前が主人公になってんだよ!」
「いや、私が阿良々木先輩のプレーヤになってだな」
「やめてくれ! あっという間に僕の好感度が下がりそうだ!!」
まあ、神原の奴、これでバスケ部時代から後輩たちの憧れの的だったそうだから、そう悪いことにはならないかもしれないが。
……しかし、このキャラが男だったとして(と言うか、僕だったとして)許されるものかどうか。
「しかし、戦場ヶ原先輩がメインヒロインだとしても、今時のゲームにしてはヒロインが少なすぎないだろうか? 阿良々木ハーレムの増員希望だ」
「お前まで阿良々木ハーレムとか言うな!」
「千石ちゃんは妹的存在として外せないとして——羽川先輩の眼鏡っ娘委員長キャラも定番だな。あとは——そうだ、以前忍野さんのところで見かけた金髪幼女がいただろう。彼女が飛び級の天才少女として転入してくるという設定はどうだろう」
「やめろ! 忍に勝手な属性を追加するな!」
「——いや、駄目だ阿良々木先輩、重大な問題が一つある」
と、真面目な顔でこちらを見つめる神原。
「な、何だ?」
「阿良々木先輩には、ギャルゲーの主人公につきものの、お調子者の男友達がいない」
「…………っ!!」
てめえ……。
本人を目の前にしてよく言ったな……。
「男友達がいなければ、遊園地でWデートとか、夏休みの合宿で女風呂を覗こうとして騒動を起こすとか、そういった重要なイベントがクリアできない」
「そんなもんが重要なイベントかよ! いや、普通にあるだろ、主人公に男友達がいないギャルゲーくらい!」
なんか……。
言ってて虚しくなってきた……。
「……いや、まてよ。ひょっとしてジャンルが違うのか? ——そうか、思い違いをしていた。逆に考えれば、阿良々木先輩しか『男性』がいないというところがポイントだったのだ」
「はぁ? 何を言ってるんだ、神原」
と。
神原の瞳が、なにやら怪しい輝きを放つのを、僕は見た。
「つまり、阿良々木先輩は、男なのに女性のフリをして、女子校に転校してくるという、そういう設定の百合恋愛シミュレーションゲームなのだ」
「はぁっ!!?」
「らぎ子ちゃんのドキドキ新生活のはじまりだ」
「そのあだ名を蒸し返すな!!」
「うむ。そう考えると、阿良々木先輩は男性にしては髪も長いし、女装の似合いそうな体型をしている……」
神原の眼は、すっかり獲物を狩るもののそれになっている。
「ちょ、ちょっと待て神原、冷静になれ! それこそ現実とゲームの区別をつけろ! そんな、女子のフリをして気づかれない男子高校生なんているわけがないだろ」
「いやいや、阿良々木先輩ともあろう方が、そんな先入観に囚われていてはいけない。何事も実際に確かめてみなければ。そうだ、ちょうど今、私の手元にはこんなものが」
と、神原は肩にかけていたスポーツバッグから、女子生徒のセーラー服を取り出す。
サイズ的に、神原自身の制服というわけではなさそうで、丈は不本意にも、僕の体型にちょうど良いくらいだった。
「……か、神原さん? そ、それは?」
恐る恐る、僕は尋ねる。
「戦場ヶ原先輩の制服だ。まさに渡りに舟という奴だな、セーラー服だけに」
「…………。何でお前がそんなものを」
後半の台詞はスルー。
「うむ。私は戦場ヶ原先輩を信奉するものとして、片時も先輩のぬくもりを忘れたくないのだ。いついかなるときも、戦場ヶ原先輩の体温を感じていたい、一生のお願いだと、戦場ヶ原先輩にそう言ったら、こころよく貸してくれてな」
「そんなしょうもないことに一生のお願いを使うなよ! 戦場ヶ原の奴もそれで貸してんじゃねえ!!」
「そんなわけで本来、これは私と戦場ヶ原先輩との愛の証なのだが……。まあ、らぎ子ちゃんになら、制服も着られて本望だろう」
「らぎ子ちゃん言うな!!」
そう言う間にも、神原はその包帯を巻いた左手で、僕の制服を脱がしにかかる。
「ちょっ、待て、神原、いくら何でもそれは——」
「そんなこと言って、体は正直だぞ阿良々木先輩」
「やーめーろー!」
ぼ、僕の……僕の中の何かが、ガラガラと音を立てて壊れていく——
と。
僕を押さえつけていた神原の腕の力が急に抜かれる。
「…………」
かわりに、無言の圧力を背後に感じる。
そこに、もうひとりの女生徒が立っているのを見て、先程のガラガラは、教室の扉が開かれた音だったことにようやく気づく。
「……ごめんなさい。私、至極真っ当な常識人だから、こういうときにどういう言葉をかければ良いのか判らないのだけれど」
その平坦な声は。
少し眉根を寄せて、こちらを見下げる顔は。
戦場ヶ原ひたぎ、その人のものだった。
「……せ、戦場ヶ原……これはその」
「やあ、戦場ヶ原先輩。昨日話していたBL小説を持ってきたのだが——何というか、成り行きで、百合の実演になってしまった」
堂々と、わけの判らないことを言う神原。
「そう。まあ、私は別に構わないけれど」
そう言いながら、戦場ヶ原はこちらに歩み寄り、セーラー服を着せられた僕の姿をしげしげと眺める(自分の制服だということは気づいているのだろうか?)。
と、戦場ヶ原はわずかに頬を緩めて、こう言った。
「なかなか、可愛いじゃない」
「え……?」
いや、全然まったくこれっぽっちも嬉しくないのだが、戦場ヶ原の口からそんな感想が出るのは、かなり意外な感じだった。
しかし、戦場ヶ原は続けて言う。
「こんな可愛い子が阿良々木くんのはずがないわ」
「存在を全否定された!」
いつもの罵詈雑言とは別の次元の敗北感を感じた。
「——まあ、阿良々木くんで遊ぶのは結構だけどね、神原」
僕から視線を外し、神原のほうに向き直る戦場ヶ原。
「私としては、やっぱり普段の阿良々木くんのほうがいいと思うの」
「そうか……戦場ヶ原先輩には百合がお好みではなかったか」
「まあね。それに——阿良々木くんは、男の子でないと困るのよ。可愛い女の子は——後輩一人で、充分だもの」
相変わらず平坦な声で、戦場ヶ原ひたぎは、そう言った。
その表情は、僕のほうからは窺えなかった。
後日談というか、今回のオチ。
翌朝、いつものように二人の妹、月火と火憐に叩き起こされた僕は、顔を洗い、朝食を食べると、いつもの自転車で学校に向かった。と、家からすぐのところにある電信柱の陰から、人影が急に飛び出してきて、正面衝突してしまった。
「だ、大丈夫ですか? ——って」
体勢を立て直しつつ、相手の様子を気遣うと、すぐにその少女が、愛すべき後輩——神原駿河であることに気がついた。
見慣れた制服姿。ぶつかった拍子でめくれ上がったスカートから覗くスパッツ。
口には何故か、オレンジマーマレードを塗ったトースト。
「……おはようございます、神原さん」
「うむ。相変わらず丁寧な挨拶、まことに痛み入る。しかし阿良々木先輩、期待していた反応とは多少違うかな」
「……朝から何をやってらっしゃるので?」
「ん。ここだけの話、マンガやゲームの中でよくある、『あ〜チコクチコク〜』とトーストをくわえたまま家を飛び出して、交差点の角で同じ学校の生徒にぶつかる、というシチュエーションをやってみたくなったのだ」
「…………」
まあ、定番だけど。
「やはり現実にはなかなかうまくいかないものだな。スカートの裾の乱れを指摘されて、『スパッツだから恥ずかしくないもん』と言いたかったのだが」
「いや、問題はそこじゃない……。っていうかお前、今、明らかに学校からうちの方角に向かって逆走してきただろ……」
これもよく言われることだけど、同じ学校に向かってるんだから、交差点でぶつかるはずがないと思うんだが。
「それに言っとくが、何をしたって、僕とお前のフラグは立たないからな。もうトゥルーエンドを迎えちまってるから」
「いや、阿良々木先輩。まだセカンドシーズンがあるぞ」
「黙れ!!」
そんな感じで。
これが、僕達の現実だった。
(終)
2009.04.01 by plateau