「Samayoi Days」

 この世には、数多の「選択肢」が存在する。
 ふとした瞬間に生まれ、そして消えていく。そんな「選択肢」の連続によって、未来は無数に枝分かれしていく。
 そんな無数の可能性の中を、人はさまよい歩んでいく。
 その先のどれかに「幸せな結末」があることを信じて。
 この物語は、彼ら、彼女らがまだ、「不幸せな結末」へと続く道を選んでしまう前の、ささやかなお話。

 -桂心 (1)-

「あっ、誠くーん!」
 雑踏の中に、見知った顔を見つけ、少女は明るく挨拶する。
「えっ? あ、心ちゃん……こんにちは」
 振り向いて挨拶を返す少年。その名は伊藤誠。
「えへへ。こんなとこで逢うなんて偶然だね」
「心ちゃんこそ、どうしたの?」
「心はね、この近くにある英会話教室に通ってるんだよ。今はその帰り」
「へえ。日曜日なのに大変だね」
「そんなことないよー……って言いたいとこだけど、ホント言うと、ちょっとだけウンザリかな。ほかにも、ピアノのおけいことか、ダンスのレッスンとか、もー遊ぶ暇もないくらい」
「そうだよね。心ちゃんくらいの年頃なら、もっと遊びたいと思うよなぁ」
「むー。誠くん、こども扱いしないでよっ」
「ごめんごめん。でも、心ちゃんの学校の友達も、みんなそんなに忙しいの?」
「うーん、どうかな……。でも、卯月ちゃんっていう仲良しのコがいるんだけど、そのコも心といっしょの英会話教室行ってて。あと毎日、家庭教師の先生に授業受けてるって言ってたよ」
「へぇ……。最近はみんな大変なんだな」
「でも、優しい先生だから、イヤじゃないって言ってたよ」
(あ……そう言えば)
 と、心はついさっき、その彼女——卯月ちゃんに見せてもらった雑誌のことを思い出す。
 イマドキのデート特集。
 絶対に外さないデートスポットの心得、とか何とか。
「心ちゃんには、まだ早いかな」なんて、卯月ちゃんは笑いながら、その雑誌を貸してくれた。
 今はバッグの中。
「……あのね、誠くん。今日、なにか用事ある?」
「え? 今から? 別に暇だけど」
「えっと、お姉ちゃんには内緒だよ? 今日一日、心とデートしてくれない?」
 心得その1。待っているだけではダメ。女の子のほうからでも積極的に誘おう。
「えっ!? オレが、心ちゃんと?」
「あ、えっと、べ、別に、ホントの意味のデートってわけじゃなくて……。あっそうだ、誠くん、最近お姉ちゃんとあんまりデートしてないでしょ」
「えっ……何でそんなこと」
「いっしょに暮らしてるんだもん、それくらいわかるよー。お姉ちゃんって、奥手だからねー」
「うーん、まあ……」
「誠くんも、もっと積極的にならないとダメだよ? ってことで、心が練習台になってあげるよ」
「練習台って。んー……でもなぁ」
「あー、心じゃヤクブソクだって思ってるでしょー? 心だってもう大人だよー。デートくらいするもん」
(あれ? ヤクブソクって、こういう意味だったかな? たしか、卯月ちゃんがそんな言葉使ってた気がするけど。まあいいか)
「わかったよ。心ちゃんも、たまには羽伸ばさないとな。つきあってあげるよ」
「ホント!? やったー」
 こうして。
 桂心の「その日」は、はじまった。

 -清浦刹那 (1)-

 いっぽう。
 この物語における、もう一人の主役・清浦刹那は、飲食店「ラディッシュ」を訪れていた。この店では、彼女の無二の親友である西園寺世界が、アルバイト店員として働いている。世界が注文を訊きに席までやってくるなり、刹那は待ち受けていたかのように切り出した。
「世界。最近、伊藤とはどうなの」
「いらっしゃ——え? どう……って」
「世界と伊藤、つきあってるんでしょ」
「うーん……まあ、つきあってると言えば言えるような、言えないような」
「どっちなの。はっきりして」
「たぶん……つきあってるんだと思う」
「たぶんじゃダメ。世界は伊藤のこと好きなんでしょ。だったら、ちゃんとする」
「ちゃんとって」
「こんなの買ってきた。参考になるかと思って」
 と、刹那はテーブルの上に雑誌を広げる。
 イマドキのデート特集。
 絶対に外さないデートスポットの心得、とか何とか。
「参考って……珍しいね、刹那がこういう雑誌買うのって。あんまり、そういうの興味なさそうなのに」
「私のためじゃない。世界のためだから。世界のためなら、私は何でもする。願掛けでも、丑の刻参りでも何でも」
「それはさすがに怖いような……」
「今度、これの通りに伊藤を誘ってみればいい。何なら、私が練習台になってあげる」
「練習台って」
「私が伊藤の代わりじゃ役不足だけど」
「そんなことないよ。その気持ちは嬉しいよ」
「ちがう。そういう意味じゃない」
「え?」
「役不足ってのは、役割がその人にとって不足してるって意味。私が伊藤なんかの代わりをするなんて屈辱的だけど世界のためだからやってあげるってこと」
「そこまで言わなくても……伊藤ってああ見えてもいいところもあるし」
「知ってる」
「え?」
「じゃなくて……そう言えるくらい、好きだって思ってるってことでしょ」
「うぅ……。まあ」
「世界。今日はシフト、三時まででしょ? バイト終わったら、みっちりデートコースの勉強するから、そのつもりで」
「ふわぁーい。わかりましたぁ、清浦先生……」
 そう言って、すごすごとカウンタへ戻ろうとする世界。
「あ、世界。それと」
「……まだ何か?」
「アイスコーヒーとジャンボチョコレートパフェ、大盛りで」
「……かしこまりました」
 こうして。
 彼女にとっての「今日」も、はじまりを告げた。

 -桂心 (2)-

 心得その2。デートのはじまりはおしゃれなカフェ。
 と、いうわけで。
 桂心と伊藤誠は、榊野ヒルズで一番人気というカフェを訪れていた。
 豆からこだわった特製焙煎コーヒーが自慢の店、とか。
「じゃっ、わたしコーヒー!」
「あ、俺も同じので」
「かしこまりましたー、コーヒーふたつですねー」
 と、店員さんが下がっていく。
「心ちゃん、コーヒー飲めるの? この店、パフェとかもおいしいって評判らしいけど」
「うー……ううん、オトナのジョセイだもん、コーヒーくらい飲めるよっ!」
 テーブルに置かれたグラスを見つめながら、心は答える。グラスの中の水と氷に反射して、周りの景色が歪む。

 
 しばらくして、コーヒーが席に運ばれてくる。
(ううっ……思ったよりにがいよー)
「でも、これが大人の味って奴なんだよね。うん、心、大人の階段のぼっちゃってるかなぁ」
「こ、心ちゃん、大丈夫? ミルクとか砂糖とか、入れなくていい?」
 そう言われて、テーブルの隅に置かれたシュガーポットを横目で見る。しかし、
「ううん、全然平気だよっ。コーヒーはブラックじゃないとっ」
「そ、そう……」
 そしてカップを口に運んでいく。
(……でも、アイスコーヒーにして、ガムシロップくらい入れても良かったかな……)
 なかなか減らない、カップの中の黒い液体。そこに映る自分の顔とにらめっこしながら、心は思う。
 今度、この店に来たときは、アイスコーヒーとパフェのセットにしようと決心した。

 -清浦刹那 (2)-

 それからしばらくして。
 刹那と世界もまた、同じカフェを訪れていた。
「ねぇ、刹那〜。ついさっきまでラディッシュにいたのに、なんでいきなりカフェなの?」
「しょうがないでしょ。デートのはじまりはカフェからって、ここに書いてあるんだから。それに、この店、流行ってるみたいだし、たまには敵情視察ってことで」
「う〜ん……」
 と、店内を見回す世界。そして、不敵な笑みを浮かべる。
「……まあ、店員の制服のかわいさではうちの方が上かな」
「そういう店じゃないから、ここ」
「ちょっと! ラディッシュを変な店みたいに言わないでよ! 刹那だって働いたことあるじゃん!」
「あれは、世界が病気だったから、かわりに——」
「ご注文はお決まりでしょうか〜?」
 互いにとって触れられたくない話題になりそうだったところに、タイミング良く店員がオーダーを取りに来る。
「あ、えっと、ちょっと待って、刹那から先に」
「わたしは、アイスコーヒーに季節限定トロピカルパフェ」
「って!! まだ食べるの!?」
「余裕」
 と、世界に向かってピースサインを作る刹那。
 
 そして。
「はい、ガムシロとーにゅー」
 と、ガムシロップをアイスコーヒーに注ぎ込む刹那。
「うわぁ……。刹那、あんたよくそんなにコーヒー甘くできるわね」
 呆れた表情でそれを見つめる世界。
「はいダメ」
「え?」
「世界、これはデートの練習だって言ったでしょ? さっきから全然デートっぽくない」
「そんなこと言われても」
「はい」
 と、パフェのスプーンを世界に差し出す刹那。
「え? 何? 私も食べていいの?」
 ぺち。
 そのまま世界の頭を叩く。
「そうじゃなくて。デートのお約束。これで伊藤に食べさせるの」
「えぇっ!?」
「もしくは、もっと高度な技として、『あ、口にクリームついてるよ』って言って指でぬぐって、そのまま自分がなめるってのもあるけど」
「あんた何者よ……」
「ほら、早く」
「うぅ……は、はい、あーん」
「あーん」
「…………」
「うん、合格」
 世界は、顔を赤くして下を向く。
「……刹那、ごめん、もう私、この店来れないかも」

 -桂心 (3)-

 心得その3。デートの定番、映画館。
 ふたりは、榊野ヒルズでも最大規模を誇る高層ビルの中にある複合型映画館に向かった。入口には、様々な上映中の映画のポスターが掲げられている。
「うわー、広ーい。いろんな映画がやってるんだー」
「心ちゃん、何が観たい? アニメとかもやってるみたいだけど」
「もー、誠くん、すぐそうやって心のことこども扱いしてー」
「いや、何を言うんだ心ちゃん! 今やアニメ映画というのはこどもだけのものじゃない、大人がみてもじゅうぶん楽しめるクォリティの高いものなんだぞ!?」
「え、そ、そうなんだ、それは知らなかったけど……。でも、今日はやっぱり外国の恋愛映画とかがいいのっ。お姉ちゃんといっしょに観に行っても、心にはまだ早いなんて言って見せてくれないんだもん」
「うーん、そうか……。じゃあ、あれなんかどう?」
 と、誠は、海辺をバックに若い男女が見つめ合う、いかにもなポスターを指さす。
「うん、いいよっ」
 そして、上映時間。
 照明が落ちる前にこっそり確認したところ、観客席は大半がカップルのようだった。ほぼ満席だったが、映画がはじまると、観客席は水を打ったように静まり返る。スクリーン上では、落ち着いた音楽に乗せて、淡々と物語が進んでいく。台詞も少ないとはいえ、吹き替えではないので字幕を追っていかなくてはならず、正直なところ、一時間もしないうちに、話がよく判らなくなってしまった。
 それに、何より。
 こんな暗闇の中で、すぐ隣に異性がいるという状況が、映画の内容以上に心を落ち着かなくさせていた。
 ちらっと、ふたりの間の肘掛けに目をやる。
(……こういうときなら、手とか握ってみても不自然じゃないかな。あれ? それって、こわい映画のときだったっけ……)
 そう思いながら、視線を上に向ける。
「…………」
 誠は、真剣な表情で、スクリーンに映し出された物語に見入っていた。
(誠くん……)
 それは、心にとって、今までになく、相手を大人に感じた瞬間だった。

 映画が終わり、あたりが暗闇から解放される。
「んー。心ちゃん、どうだった? 最後のほう、船をこいでたみたいだったけど」
「えっ、う、うん。そうだよね、ラストシーンは切なかったよねっ。夕陽に向かって、ふたりがボートをこいでいくとこ……」
「? そんなシーンあったっけ? そうじゃなくて、眠そうだったっていう意味なんだけど」
「えっ。そ、そんなことないよ。楽しかったよ」
「そう? それならいいけど」
「……今までの人生で、一番ドキドキしたかも」
「へぇ、心ちゃん大人だね」
「そうだよっ。誠くんったら、やっと判ったの?」

 -清浦刹那 (3)-

 同じく、映画館。
「やっぱりここは、定番のフランス映画でラブロマンスを」
「ねぇ〜、もうやめようよぅ。女同士でこんな映画観るのって恥ずかしいよ」
「何を今さら。だから言ってるでしょ、私はただの練習台だって」
「——練習台が本気になることだってあるし」
「え……。ごめん世界、いくら私でも、そっちの方向はちょっと」
「わーっ、違うってば!」
「……でも、そうだよね。世界のためなら私、何だってするって決めたもんね。うん、世界がそれでいいなら」
「だから、そうじゃないってば。判ったわよ、これでいいから、早く映画観よっ、ほらほら」
 刹那を強引に引きずるようにして、受付に向かう世界。

 そして、開演。
 スクリーンに映し出される物語に、目を奪われるふたり。
「……ううっ」
「……そんな……こんなことって……っ」

 あっという間に、二時間の上映が終わる。
「あー驚いた。まさか、あんな映画だったなんて」
「……ホント。誤算だった。久しぶりに観たかも。あんな……」
「「笑える映画」」
 愛と感動のラブロマンス、かと思いきや、壮大なコメディであった。
「あーあ、私もあれだけ笑ったのは久しぶりかも」
「……そうね。さっきの顔、伊藤に見せたかったかも」
「……!? な、何言うのよ刹那」
「世界は、笑った顔のほうがかわいい。最近の世界、あんまり笑わなくなった気がするから」
「そ、そう? そんなこと……ない、けど」
「なら、いいけど。さっきみたいな笑顔のほうが、伊藤も」
 ——笑った顔のほうが。
「好きだと思うから」
「そ、そうかな?」
 少し照れたようなはにかみを見せる世界。
「うん」
 そう。
 こんな世界だから。
 清浦刹那は、世界のためなら何でもする。

 -桂心 (4)-

 映画館を出た後。
 そのままふたりは、同じビルの別の階にあるショッピングモールを見て回る。ショッピングの合間に交わす会話は、ふだんの学校の友達と話すのとは、また違ったものだった。姉のこと、誠の学校のことを聞き出したり、心自身のことを話したり。
(——そうか。こういう、何でもない会話が、デートの楽しみのひとつなのかな)
 そんなことを思いながら、もう一度、例の雑誌を開く。
 心得その4。デートの最後は、眺めのいいところで、きれいな夜景をバックに乾杯。
「ん? 何読んでるの?」
 そこに、誠が覗き込んでくる。
「なになに、絶対に外さないデートの心得——あー、なんか変だと思ったら、こんなの読んでたのか」
 そう指摘されて、照れ笑いを浮かべる心。
「えへへ。……あのさ誠くん。心得って、心待ちにする日って書くんだよね。いつかは心にも、こんなふうにデートする日が来るのかなぁなんて思ってたけど、今日、それが叶っちゃうなんて、夢みたい」
「……ちょっと書き順が違うような気がするけど。まあ、楽しんでくれたのなら良かったよ」
「ねぇねぇ、このビルって、屋上にも上れるんだよね? せっかくだから、最後に夜景をいっしょに見たいなっ」
「夜景って……もうそんな時間か。でも、あんまり遅くなると家の人が心配するよ。日が暮れる前には帰らないと」
「えーっ。じゃあさ、せめて、夕焼けだけでも見に行こうよ。すっごく綺麗だよ、きっと」
「うーん。まあ、ちょっとだけならいいか。夕焼けを見たらすぐに帰るよ」
「はーい」
 そうしてふたりは、屋上へと通じるエレベータに向かう。

 -清浦刹那 (4)-

 同じビルで、刹那と世界のふたりもまた、ショッピングを楽しんでいた。

 ——というより、刹那が、世界に似合いそうな服を片っ端から試着させていた、というほうが正しい。狭い試着室に無理矢理ふたりが入っての大騒動は、あえてここでは描写しない。
 買い物も一段落して、ビルの窓際に設置された休憩席に腰掛けるふたり。
「はぁ……バイト代が出たばかりだからって、買いすぎちゃったかな」
「いいじゃない。これで今年の夏は、伊藤の視線を独占」
「だといいけど。っていうか、刹那も、何か買えば良かったのに」
「……あたしに合うサイズの服、こういう店じゃほとんどないのを知ってるくせに」
「ちょっ、そんなつもりじゃ」
「冗談。……でもいいの、本当に。今日は、世界のデートの練習、だから」
 何度目になるか判らない、その台詞を口にする刹那。
「そのかわり」
 と、刹那は例の雑誌を取り出す。
「まだやるのー?」
 いい加減、ウンザリしたような表情を見せる世界。
「これで最後。デートの最後は、夜景をバックに乾杯」
「夜景ねー……」
 振り返って、少し高いところにある窓を見上げる世界。外は、もうすぐ夕暮れの茜色に染まる頃。
「最上階にレストランもあるみたいだけど、ちょっと高そうだし。屋上に、ちょっとしたテラスがあるみたいだから、そっちにしようと思うけど、いい?」
「いいも何も、もう決めてるんでしょ? まあいいわよ、じゃあ行きましょ」
「ん」
 そうして、ふたりは腰を上げる。その歩みを、屋上へと向ける。

 -桂心 (5)-

「あ」
 エレベータに向かう、その途中で通りがかったゲームコーナー。その一角にあるクレーンゲームに、心の目は奪われた。
 ガラス張りのケースの中に、乱雑に詰め込まれたぬいぐるみたち。その中に、ひときわ大きなピンクの物体。
「マヨちゃん」
 と、そのキャラクターの名前が思わず口を突いて出る。
「ん? これ? そういえば、どこかで見たような気がするな。心ちゃん、これ欲しいの?」
「う、うん……でも、心、クレーンゲームってやったことないし」
「んー……。そうか、わかった。俺がかわりに取ってやるよ」
「えっ? 誠くんが? こういうの得意なの?」
「任せとけって」
 そう言って誠は、近くにあった両替機に向かう。自分の財布から紙幣を取り出し、百円玉に換える。
 百円玉をゲーム機の横に山と積んで、スタンバイ。
「よーし、すぐにカタをつけてやる!」

 三十分後。
「……はぁ、はぁ。何故だ……どうして……」
 いまだクレーンゲームと格闘する彼の姿がそこにはあった。
 何度もクレーンに引っかけることは成功するものの、惜しいところで、マヨちゃんはその束縛から逃れてしまう。
 不安そうな顔で、その様子を見つめる心。
「くそぅ……よーし、今度こそ——」
 と、百円玉を取ろうとして、手は中空をかすめる。両替した百円玉が切れたのだった。それに気づいて、誠はあらためて財布を取り出す。と。
「あっ……しまった」
「……? どうしたの、誠くん」
 誠がこちらを向く。申し訳なさそうな口調で、こう言った。
「ごめん、心ちゃん。帰りの電車賃、貸してくれない?」

 すっかり宵闇に包まれた街で、ぽっかりと明るい駅のプラットフォーム。列車の接近を知らせるチャイムが響く。
「……ホントにごめんね、心ちゃん。お金は、今度会ったときにちゃんと返すから」
「うん、気にしないで」
 列車が到着し、ふたりは車内に足を進める。ちょうど、ふたりぶんの並んだ席が空いていたので、そこに座る。
「けっきょく、あのぬいぐるみ取れなかったし……。夕焼けが見たいって言ってたのに、それもフイにしちゃって。あーあ、心ちゃんにまでこんなみっともないとこ見られちゃって、俺ってホント情けないよな」
「そんなことないよっ。今日一日、誠くんのいろんなとこが見れて、心は楽しかったよ。誠くん、格好良かったし」
「え? どこが?」
「えへへー。ないしょ」
 単調な列車の走行音がBGMとなって、ふたりの会話を包み込む。やがて会話が途切れ、列車の音と振動音が、心のまぶたを重くしていく。
「うぅ……ん」

「……心ちゃん?」
 眠りに落ちる心。船をこぐように、小さな体が揺れる。その左右のバランスが崩れ、おそらく無意識のうちに、誠のほうにもたれかかる形となる。
「一日、いっぱい遊んで、疲れちゃったのかな」
 そっと、その頭をなでる。
「おやすみ。心ちゃん」
「ん……」

 それは、桂心にとって。
 映画のワンシーンのような、幸せな夢だった。
 ずっと、醒めないでほしい——そんなイノセントな、願いだった。

 -清浦刹那 (5)-

 ビルの屋上へ向かったふたり。
 そこは、広範囲に榊野町を見渡せるテラスになっていた。眼下に、自分たちの住む街が見える。通学に利用する路線の上を、列車が滑っていく、ジオラマのような光景。
 そんな街を、夕焼けの茜色が包み込む。やがて日が沈み、世界が色彩をなくしていく。
 その刻一刻の変化を、ふたりは言葉もなく見つめていた。
「……はぁ」
「世界」
「なんか、思わずため息が出ちゃうわね。正直、こんなにすごいとは思わなかった」
「うん」
 素直に首肯する刹那。
「『きれいな夜景だね』とか言って、『でもきみのほうがもっと綺麗だよ』って言わせようと思ったんだけど」
「何よそれ。言わないってば」
 あはは、と世界が笑う。
「さてと……帰ろっか」
「そうだね」
 エレベータを使い、一階まで下りる。
 と。出口に向かうまでの道中、ゲームコーナーにさしかかる。
「あ……マヨちゃんだ」
 その一角の、クレーンゲームの中から顔を覗かせる、見覚えのあるピンクの物体。
「あれ? これ、刹那が好きなぬいぐるみでしょ」
「うん」
「しかも、けっこう簡単に取れそうじゃない。やってみたら?」
「え……でも。今日は、世界のデートの練習で。私は別に」
「もーう。刹那っ」
 ぴしっ、と、刹那の顔に人差し指を向ける世界。
「は、はい」
「さっきからそんなことばっかり言って。そりゃ、刹那は昔っから、自分より他人のことばっかり考えてるような奴だけどさ。
 もう少し、自分も楽しみなさい」
「う……」
 そう言われて、言葉を無くす刹那。
「気遣ってくれるのは、私も嬉しいけど。伊藤は、ああいう奴だからさ。ま、なんとか、なるようにはなると思うし。だから、今日のことは、デートの練習とかじゃなく、純粋に、私と刹那だけの想い出」
「…………」
「ということで、刹那は刹那のやりたいようにやってみなよ」
「……わかった」
 友人の言に従って、クレーンゲームに挑戦する。財布から、百円玉を取り出し、投入口に滑り込ませる。
 クレーンが動き出し、
 手元のボタンで操作する。
「あ……」
「やった!」
 見事、マヨちゃんぬいぐるみはクレーンに引っかかり、そのまま出口まで運び込まれる。
「やるじゃん刹那、一回で取れちゃうなんて」
 刹那よりよっぽど喜びを表情に表して、世界がぬいぐるみを差し出す。
「……いいの、かな。私が、もらっても」
「何言ってるのよ、自分で取ったんでしょ」
「……うん。ありがと、世界」
 そう言って、彼女は微笑みを返す。戦果のマヨちゃんぬいぐるみにも負けない、満面の笑顔だった。




「Samayoi Days」
恋する心

(終)
2008.07.16 by plateau