暦お兄ちゃん、なのだった。
僕の妹、火憐と月火の友達であるところの、千石撫子という少女にとって。
友達の兄であるところの、阿良々木暦という存在は。
その人間関係から容易に導きうる呼称である「暦お兄ちゃん」なのであって、
それ以上でも、
それ以下でもないのだった。
——しかし、そう言ってみたところで、その立ち位置は、案外得がたいものなのかもしれない、とも思う。
いわゆる「友達以上恋人未満」の関係という奴が、数学的に厳密にその言葉を定義してみれば、ただの友達でしかないというのは、よく聞かれる冗句だ。
それなら、その考え方を、この「それ以上でも以下でもない」という成句にも適用してみればいい。
そうすると、「以上でも以下でもない」存在というのは、まさに両者の境界、空前絶後にして唯一無二の地点に立っているわけだ。
そう考えると、それはとても稀少で、貴重なことなのかもしれない。
——なんて。
柄にもなく、そんな戯言めいたことを口にしてしまうのは。
僕自身、今僕の置かれている状況がよく理解できていないからかもしれない。
彼女——千石撫子にとって、僕はただの「暦お兄ちゃん」。それ以上でも以下でもない。
そのはずだったのだけれど。
あるいは、それ故に、だとでも言うのだろうか。
まったく、なんでこんなことになってしまったんだろう。
そう、思わず繰り言を口にしたくなる衝動を抑えて、
僕はとりあえず、昨日の出来事を、反芻する。
それは昼過ぎのことだった。
僕は、千石撫子の家を訪れていた。
月火や火憐も誘ってみたものの、相変わらず「用事があるから」と断られ、一人で千石の玄関の前に立つ僕。
チャイムを押し、中からの反応を待つ。しばらくして、内側からドアが開けられる。
「あ、待ってたよ、暦お兄ちゃん」
と、いつものように僕を出迎える千石。しかし、明らかにいつもと違う一部分に、僕は目を奪われた。
見慣れたピンクのカチューシャで上げた前髪の、さらに上方。
真っ白でふわふわの毛糸でできた長い棒が二本、上に伸びて、途中で重力に負けて垂れ下がっている。
うさみみ——と、そう形容するしかないものが、千石の頭の上に乗っていた。
……月見はこの前の話で終わったはずだが。
「……あの、千石。ちょっと僕、女の子の流行に疎くて、よく判らないんだけど、それ……そういうの、最近流行ってるのか?」
「えっ?」
と、僕の視線に気づいて千石は両手をうさみみに伸ばす。
「あ、ううん……。えっと、せっかく暦お兄ちゃんが家に来てくれるから、ちょっと気合い入れちゃった」
「気合いの入れどころが判らねえよ! お前はそれで、僕にどんな反応を求めてるんだ!?」
「あ、ご、ごめんなさい。暦お兄ちゃんはねこみみのほうが良かった?」
「そうじゃねえよ! うさみみかねこみみかとか、そんな選択肢のことを言ってるんじゃない!!」
それに猫耳なら羽川で見慣れている。
……いや、前言撤回。見慣れているわけではなく、むしろ何回見ても見飽きないというか。って、だからそうじゃなくて。
「だって、この前読んだ漫画に、男の子は女の子がこういう格好をすると喜ぶって描いてあったから」
「そんな漫画は読んじゃいけません!」
思わず、教育ママのような発言をしてしまう僕。
「……まあいいや。とりあえず、中に入ってもいいか?」
他人の家の玄関先で、いつまでも大声でツッコんでいるのも近所迷惑だ。
「あ、うん。でも、心配しなくても大丈夫だよ。お隣さんも向かいの家も、いま誰もいないから」
「…………」
「もちろん、うちのお父さんもお母さんも今日は夜遅くまで帰ってこないからねっ。もし家の中で私が悲鳴をあげても誰にも聞こえないから」
「……………………」
何故ご近所の留守事情を知っているのかとか、どうしたら千石が悲鳴をあげるようなシチュエーションになりうるのかとか、訊きたい気持ちでいっぱいだったが、訊くと後悔しそうな気がするのでやめておく。
「ま、まあ、それじゃ、お邪魔します」
例によって、二階の千石の部屋まで案内される。以前に来たときと同様、室内は小綺麗に片付いている。
「さてと、で、今日は何して遊ぶんだ?」
「うんとね……撫子、野球がしてみたいの」
「野球?」
「うん。暦お兄ちゃんの知り合いの人を集めてチームを結成して、近所の商店街の草野球チームと対戦するの」
「待て待て待て! なんだそのどっかで聞いたような話は!」
「え、だって、この前見たアニメに、そういうお話があって」
「だから、漫画とかアニメとかに、すぐ影響を受けるな! 空想と現実の区別がつかない子供かお前は!」
またも、どこかの評論家みたいなことを口走ってしまう僕だった。
「大体、その案には一つ大きな問題点がある」
「え?」
「こう見えても僕は友達を選ぶことで有名なんだ。自慢じゃないけど、僕の知り合いを全員集めても九人も集まりそうにないぞ?」
「それはあんまり自慢にならないよね……」
もっともな千石の指摘は聞き流し、とりあえず数えてみる。
僕と千石、それに火憐と月火、これでまず四人。それから戦場ヶ原に神原、羽川、八九寺……。
ほら、八人しかいない。
忍野はもういないし——(いたとしても戦力になりそうもないが)あと一人、入れるとしたら……忍とか? いや、相当無理がある。
第一、八九寺や忍とは逢わせたくない危険人物が約一名いるし。
っていうか、このメンバーでまともな野球の試合が成立するはずがない。野球なんて高度なチームワークが要求されるスポーツを、急造のチームでこなせるのは、それこそアニメや漫画の中だけだ。
そう言うと、千石はしおらしくなって謝る。
「えっと、ごめんなさい。今のは冗談で、ホントは撫子と暦お兄ちゃん、ふたりだけでやる野球がいいの」
「ふたりだけで……? つまり、野球の試合じゃなくてキャッチボールがしたいってことか? それなら、別にいいけど」
しかし、だとしたら、わざわざ部屋に入れてもらわなくても。
「あ、ううん。そうじゃなくて。ちゃんとした試合だよ。それに、外に出る必要なんて無いよ。室内だって野球はできるじゃない」
「……ああ、そうか、ゲームで対戦するってわけだな」
「うん、野球盤ゲームで」
「野球盤!? コンピュータゲームじゃないんだ!」
相変わらず、時代に安易に流されない奴だった。
「待ってて、今出すから」
と、千石は例の怪しげなクローゼットの中から、野球盤を取り出す。
ずいぶん年季の入った野球盤。ケースには、とっくに現役を引退して、今ではたしか監督になっている元プロ野球選手の顔写真が印刷されている。
「じゃあ、やろっか、暦お兄ちゃん」
「いいけど……ところで千石、念のために訊くけど、お前、野球のルールって知ってるのか?」
「うん。アウトになったら一枚ずつ脱いでいくんだよね」
「それはたしかに野球って名前はつくけど別のいかがわしいゲームだよ! だいたい、アウトごとに脱いでいったら、先攻のほうが圧倒的に不利だろうが!」
「こ、暦お兄ちゃんは高校生だから、後攻でいいよ……?」
「無理してうまいこと言わなくていいから!」
どうしてそうチャレンジャーなのだろう。
「そっか、脱がなくていいんだ……。ゲームって地方によってルールはいろいろだね」
「お前も僕も同じ地方の人間だろうが! っていうか野球のルールは全世界共通だよ!」
いや、まあ、ベースボールと野球は違うとか、言う人はいるけど。
そんなこんなで一悶着ありつつ、僕と千石、ふたりだけの野球盤上の対戦が開幕した。
結局、さっきの会話の流れで、先攻は千石。対する僕は守備側。といっても、することは、スコアボードの裏側から操作を行い、マウンドからバッターボックスに向かって球を繰り出すだけ。それを、バッターボックスに据え付けられた小さな金属バットで打ち返すのが攻撃側の仕事。その球が、グラウンドのどのゾーンに転がったかで、アウトかヒットかが決まる、これが野球盤における対戦の要領だ。
野球盤で遊ぶのは、僕もずいぶん久しぶりだったが、何回かの投球をくり返すと、なんとなく思い出してきた。そういえば、現実の野球ではできない、野球盤ならではのものがあったっけ。どうやら、この野球盤も、ちゃんと対応しているようだ。
ということで、「消える魔球」を披露してみた。
「うわっ! な、何、今の!? すごいすごい!」
本気で驚く千石。
いや、野球盤で遊んだこと無かったんかい。
「ねえねえ、暦お兄ちゃん、今のどうやったの?」
「どうって……ほら、ここをこうやって、ボールが来たタイミングで穴を開けて……」
「す、すごい……こんなところに、入っちゃうんだ……。暦お兄ちゃんのが……」
「…………」
そんなほほえましい会話があったりしつつ、試合は進んでいく。
八回を終わって、得点は五対六。一点差で僕が優勢のまま、最終回を迎える。
九回表、千石の攻撃。空振りの三振から、ヒット、二塁打が出て、一死二・三塁。
「わっ、こ、これって逆転のチャンスかな。ねえ暦お兄ちゃん、こういう場面ってスクイズっていうののチャンスなんだよね」
「いや、野球盤でスクイズは無理だろ……」
できたとしても、それを敵に言っては意味がない。
「うん、撫子にもまだチャンスはあるってことだよね。幸せな結末が待ってるかもしれないよねっ。よぉーし、ガンバるぞー」
なんだか妙にテンションが上がっている千石。
小さな金属バットに指をかけて、僕の投球を待つ。
そんな彼女に向かって、僕は小さな球を繰り出す。
そして——。
千石の指を離れたバットが、宙を切ること六度。
千石の攻撃は、終わった。
「ふぅ。残念だったな。お疲れ様」
「え? 暦お兄ちゃん、まだ裏の攻撃が残ってるよ?」
「……? 裏って、僕のほうがリードしてるから、これでゲームセットだろ」
「で、でも、そんなのっておかしいよ。最後までやろうよ。人気が無くて打ち切りになった漫画でも、最終回が半分のページ数で終わるなんてことないもん」
「いや……漫画と野球をいっしょにするなよ……」
そりゃ、どっちも同じ最終回って言うけど。
「漫画の話じゃないよ。野球の話だよ。野球は九回までって決まってるんでしょ? もう勝ちが決まってるから、負けが決まってるからって、途中で終わりだなんて……そう言われて、暦お兄ちゃんは、それで納得できるの?」
「それは——」
それは確かに。
千石の言っていることは、まるで子供のような、道理の通らないことかもしれない。
だけど、たとえば。
ある日、道で吸血鬼と行き逢ったことによって、僕の人生が、僕の人としての生が、それで終わりだ、なんて言われたところで。
それで納得できるわけがない。
納得できるわけがなかった。
たとえば。
目の前にいる少女が、とある怪異に行き逢って。
彼女一人の力では、どうしようもないことになって、それが僕一人の力だけでは、とても助けにならない——そんな最悪の状況になったところで。
それで、諦められるわけがない。
そういうことなのだ。
それだけのことなのだった。
まるで意味がない、蛇足だ、と言われてたって。
蛇の足を描いた人は、その本人は良かれと思ってしたことなのだ。
それを責めることは、僕にはできない。
「わかったよ……。千石、お前の言うとおりだ」
「暦お兄ちゃん……」
「最後まで、ちゃんと、野球しよう」
「うん! 撫子も、暦お兄ちゃんと、少しでも長く、ゲームしたい」
ということで。
僕と千石の対戦は、九回の裏まで続いた。
最終的な結果は——まあ、言わぬが花というものだろう。
後日談というか、今回のオチ。
翌朝、いつものように二人の妹、月火と火憐に叩き起こされ——たと思った僕だが、しかし、その起こし方が妙なことに引っかかる。
耳元で、優しく息を吹きかけられるような、囁き声。
「……お兄ちゃん」
そのまま、僕の耳たぶを甘噛みするような、歯と舌の感触。
「……!?」
思わず飛び起きる僕。と、そこには、月火と火憐——ではなく、千石撫子の姿があった。
制服の上にエプロン姿。ご丁寧に、両手にフライパンとお玉まで装備している。
「も、もう、お兄ちゃんったら、お寝坊さんなんだから。が、学校、遅刻しちゃうよ……」
「ま、待て待て、飛ばしすぎだ千石。……何やってんだ?」
「え、えっと……撫子も、一度でいいから、暦お兄ちゃんを起こしてみたいなって。ららちゃん達に頼んで、代わってもらったの」
えへへ、と、少し顔を赤らめ、僕の布団の裾をつかんで口元を隠す千石。
「…………」
僕は大きく深呼吸をし、昨日の出来事を反芻する。
「……どこだ!? どこにそんな伏線があった!!?」
いくら何でも、本編と何の関係もない、こんな脈絡のない後日談なんて許されないぞ。
「伏線はちゃんとあるよ。ほら、昨日、二人で野球、したじゃない」
「だから、野球とこのシチュエーションと、何の関係が……」
「ほ、ほら。野球だけに、ホームベースでお出迎え、みたいな?」
「……アウト」
「ふ、ふえぇ〜!?」
しかし、こんな光景も、日常という延長戦が、まだ続いていることの証だろうと思う。
たとえ、いつか終わりを告げるとしても。
けっして無駄だとは思わない、そんな日々だった。
(終)
2008.11.11 by plateau