それは、僕の妹、阿良々木火憐が巻き込まれた——否、「巻き起こした」というほうが正確かもしれない——ある事件が終わりを告げた後の、夏の日のこと。僕のもう一人の妹、阿良々木月火にまつわる事件が、いまだはじまりを告げる前のことだったと記憶している。
と、いうか。
何故か、今の僕には、月火の事件というのがどういうものだったのか、いつ起こったものなのか、まるで記憶がはっきりしないのだった。あれは火憐の事件からすぐ後だったのかもしれないし、ずいぶんと時間が経ってからのことだったかもしれない。
だから、これから語る物語も、それらふたつの事件の間に起こったものであるとは思うのだけれど、実際にいつ起こったことだったのか、あるいは本当は何も起こっていなかったのか——はっきりと断定することはできない。
まあ、これはただの言い訳。要は、この物語が何物かなんてことは、あまり気にしないでほしい——ということを言いたいがためのマエガタリであって、本編にはとくに関係はない。
ということで、本編。
八月に入り、照りつける真夏の日差しの下。僕は毎日の日課である、クラスメイトによる家庭教師のくびきから解き放たれ、自宅への道を急いでいた。ちなみに、その家庭教師とは、その日が偶数日だったら戦場ヶ原、奇数日だったら羽川なのだが、あいにく日付すらはっきりしない状態なので、不確定のままだ。こういうの確か、なんとかの猫って言うんだよな。なんだったっけ、レイラ・アシュレイの猫じゃないし……。
ともかく、道を歩いていた僕の先に、一人の少女の姿が見えた。
ツインテイルをぴこぴこと揺らし、大きなリュックサックを背負って歩く、小さな女の子。
八九寺真宵だ。
友達が多いことで知られる僕だけれど、その中でも、とりわけ仲の良い友達だ。
いや、小学生女子と高校生男子が友達というのもどうかと思われるかもしれないが、何を言われても気にしない。愛があれば年の差なんて。いや、僕と八九寺との間にあるのは愛というか、それより固い絆で結ばれた友情なのだ。
そんな固い絆で結ばれた僕達だから、出会いの挨拶もそれ相応のものでなくてはいけない。
僕はこっそり八九寺の後ろに近づくと、その小さな体躯を、全力で抱き締めた。
「はっちくじー! 元気かー? また会えて良かったなあ!!」
「きゃーっ!?」
唐突な抱擁に、悲鳴を上げる八九寺。いや、これが嬉しい悲鳴という奴だ。マジでマジで。
それに応えて、僕は八九寺を地面に押し倒す。
「はははー、やっぱり友達どうしの挨拶はこのくらいエネルギッシュじゃないとなあ! ほらほら、もっとぎゅっと抱き締めるぞもっと触るぞもっとちゅーするぞ!」
「きゃーっ! きゃーっ! ぎゃうー!」
「こら暴れるな、さあどこを触ってほしいんだ、ここか? ここがいいのか?」
「ぎゃあああああっ! ぎゃおー!」
大声で悲鳴を上げる八九寺。
「きしゃーっ! きしゃーっ!」
野獣だかロボットだか判らないようなうなり声を上げて、僕の手に噛み付く。さらに、爪で二の腕をひっかく。
「痛ええっ! 何すんだこいつ!!」
だから。
痛いのも、何すんだこいつも、僕だった。
僕と八九寺の間に流れる深くて広い大河のような友情を確認したところで、僕は八九寺から距離を取る。
「ふぅーっ! ふぅーっ!」
どうやら、あちらはまだ友情を確かめあいたいらしかった。
「ま、待て八九寺! 僕だ僕!」
友情を確かめあっているのに僕だと判らないというのはどういうことだという意見は無視して、僕は声を上げる。いつの間にか左右の目の色が違ってしまっている八九寺だったが、次第に平静を取り戻す。
「ん……ああ……」
と、八九寺はうつろな目で僕を見つめる。
「クロラ木さん」
「僕を森博嗣先生原作・押井守監督で映画化もされた作品のような名前で呼ぶな。僕の名前は阿良々木だ」
「失礼、噛みました」
「違う、わざとだ……」
「噛みまみた」
「わざとじゃないっ!?」
「カンナミ・ユーヒチ」
「だからスカイ・クロラじゃないって言ってるだろ!」
だとしたら戦場ヶ原が草薙水素だろうか。
ちなみに、僕はもう一度生まれてきたいとは思わない。この一生で、充分すぎるほどだ。
それに、そんなことは、たとえ思っても、この少女の前で言っていいことではないだろう。
「クロラで思い出しましたが、阿良々木さん。実は、折り入って相談があるのです」
「何だ? 改まって」
「わたし、クロールができるようになりたいのです」
「クロール? って、水泳の?」
「はい。実は、この夏休みが終わるまでに、25メートル泳げるようになるというのが、今年の夏の目標でして」
「ああ……。懐かしいな、小学生の頃ってそういうのあるよなー。お前にしちゃ珍しく、小学生らしいこと言うじゃん」
「阿良々木さんの場合は、25ミリメートル泳げるようになる、じゃないですか?」
「短いよ! どれだけ目標が低いんだ! っていうか、25ミリメートルしか泳がないほうが難しいよ」
「……そう言うところを見ますと、阿良々木さんは泳ぎに自信がおありになる?」
「まあ、自信があるというほどでもないけど、それなりには」
「さすがです阿良々木さん。だてにクラゲみたいな生き方をしているわけではないのですね」
「それ褒め言葉じゃねえよな!? っていうか、僕をクラゲみたいな生き方してるって思ってたのかお前は!?」
戦場ヶ原かと思ったぞ。
「こよみゼリーフィッシュです」
「クラゲって英語でゼリーフィッシュって言うんだ!? やべえ、ちょっと格好いい! バナナフィッシュみたいで!」
「バナナだなんて、いやらしいです阿良々木さん!」
「小学生女子が何言ってんだ! っていうか、バナナのどこがいやらしいんだ!? 言え、さあ言ってみろ!」
「ひいっ!? 逆ギレしてセクハラですー!」
っていうか、お前とまで神原みたいなエロトークはしたくない。
「ところで話を戻しますが、クラゲはおやつに入るのでしょうか」
「戻してねえよ! っていうかクラゲがおやつだなんて言う奴がいるか!」
「酒の肴としてはけっこういけると思いますが」
「だからお前は未成年だろうが!」
「自慢じゃありませんがわたし、キクラゲをクラゲの一種だと思っていました」
「それは確かに自慢じゃないな……」
「キク8号は人工衛星の仲間ですよね」
「それは確かにその通りだが、お前が言ってるのは現実のほうか妄想科学のほうかどっちだ!?」
「基本姿勢」
「そっちかー!!」
いやまあ、僕もどっちかといえばそっちだけど。
「ときにバナナ木さん」
「バナナに話を戻さなくていいよ! 僕の名前は阿良々木だ!!」
「水泳が得意だというのなら、この八九寺真宵にひとつ、クロールを教えてやってはくださらないでしょうか?」
「また馬鹿丁寧なお願いだな……」
まあ、こいつはいつも馬鹿丁寧な言葉遣いだけど。
「別にいいけど……。今日、これから、か? お前、水着とか持ってるの?」
いつだったか、千石の怪異のときに、神原からスクール水着を借りたことを思い出す。神原なら、この八九寺の体型にも合ったスクール水着を所持していてもおかしくないが(そう思える時点で確実におかしいのだが)、やはり、あんなことは二度とごめんだった。
「その点ならご心配ありません。わたしも、だてにこんな大きなリュックサックをしょっているわけではありません。備えあれば嬉し泣きです」
「嬉し泣きまではしないと思うが……。そんな大きなリュックサックに何を入れてるのかと思えば、水着なんか入れてたのか」
「ええ。もし今後、この中に何か別のものが入っていたとしても、今日はたまたま違うものを入れていたというだけのことで、設定不整合ではあり得ません」
「何言ってんだ、お前……」
「ちなみに、プールの授業が楽しみな児童みたいに最初から服の下に水着を着てこようかとも思ったのですが、それだと、パンチラが見られないということで阿良々木さんにダメを出されそうだったので断念しました」
「くっ……八九寺、お前、僕のことを何だと思って……」
まあ。その考えはそれで大正解なのだけれど。
「ということですので、プールが終わって、替えの下着を持ってる来るのを忘れてきゃーどうしよう、なんて萌えシチュエーションとも無縁です」
「な、なんだってー!! ……フッ、甘いな八九寺、僕はそんなシチュエーションに萌えなど感じない! 何故ならそこにパンツがないからだ! 無いものには萌えられない!」
「な、なんと……。失礼しました。阿良々木さんは、このわたしが思っていたよりもはるかにレベルの高い変態だったようです」
「そうそう、なめてもらっちゃ困る……って、僕は断じて女子小学生のパンツに萌える変態なんかじゃない!」
という感じの会話を交わして。
僕と八九寺は、クロールの練習のため、プールに行くことになった。
その後、僕は自分の水着を取りに戻るためにいったん家まで帰り、火憐と月火の目を盗んで再び家を抜け出した。それから八九寺と合流し、近くの市民プールへと向かった。
ふたり分の料金を払った後(何故か、受付のおねーさんは不思議な顔をしていたけれど)、僕達は男子更衣室へ向かう。
「……いや、阿良々木さん、わたしは女子更衣室のほうへ」
「えっ!?」
「何を意外そうな表情をしているのですか……。わたしだって一人で着替えくらいできます」
「い、いやでも、お前、ひとりにすると迷子になるかもしれないし」
「何言ってるのですか。このわたしが迷子になんてなるわけないじゃないですか」
「どの口が言ってる……」
と、自分を棚にあげて、なんとか八九寺を男子更衣室へと連れ込もうとする僕。
「きゃーっ! やめてください! そんな、殿方と同じ場所で着替えをするなんて、男女七歳にして席を同じうせずと言うではないですか」
「相変わらず言うことが時代がかってるな……。二十一世紀じゃ、男女いっしょに着替えをするのが普通なんだ」
嘘だけど。
「嫌です! これ以上無理強いするつもりなら、阿良々木さんからはクロールを教えてもらわなくていいです! かわりに羽川さんにお願いします」
「は、羽川だと……?」
羽川が水泳が得意かどうかは知らないが、羽川のことだから、何でもできるだろう(何でも、とか言うと、あいつはまた反論するだろうが)。
「ふぅん、羽川ね。まあ、あいつの水着姿というのも、それはそれで一見の価値はありそうだ」
「何言ってるんですか、阿良々木さんはもう誘いませんよ」
「ええっ、そんな、じゃあ羽川の『ねえ阿良々木くん、私の胸の浮力を感じてみてよ』とかいう個人授業は?」
「そんなものありません!」
「ううむ……じゃあ仕方ない、八九寺、お前の好きにしろ」
「……やけにあっさり引きますね」
「セクハラは代えられないって言うからな」
「それは阿良々木さんがわたしにやっていることです!」
言い置いて、八九寺はとてとてと女子更衣室のほうへ駆けていく。
転ぶなよ。
十分後、着替えを終え、プールサイドで待つ僕。と、声がかけられる。
「お待たせしました、枢木(くるるぎ)さん」
「違うな、間違っているぞ……。人をナイト・オブ・ゼロみたいに呼ぶな。僕の名前は阿良々木だ」
言って振り返ると、八九寺真宵が立っていた。
小柄な体によく似合う、典型的なスクール水着。
前髪を上げ、ツインテイルといっしょにスイミングキャップの中に入れている。
うん。
「? どうしたのですか、阿良々木さん」
「うん、いや、ちょっと前言撤回。やっぱり、パンツじゃなくてもいいものはいいかなって」
「前言も後言も撤回してください……」
軽く準備運動をして、プールへと向かう。
「平日だけど、やっぱり夏休み中だから、けっこうな人出だな」
「そうですね。阿良々木さん、わたし、ヒトデが彫りたいです」
「彫れよ! そして僕にくれよ!!」
うーむ。ものすごく似合いそうだ。
「まよいスターフィッシュですね。クラゲの阿良々木さんともお似合いです」
「その話題を引っ張るな」
などと言いつつ、比較的すいている25メートルプールのほうへ向かう僕達。
「け、けっこう深いですね……」
そう言って、おそるおそる足を水につける八九寺。
「なんだ、八九寺、ひょっとしてお前、泳げる泳げない以前に、水が怖いのか?」
「そういうわけではないんですが……。実はわたし、小さい頃、海に行ったことがありまして。そのときに」
「溺れかけた、とか?」
「いえ、溶けかけた」
「そんなわけあるか!!」
「わたし、蝸牛ですから、リュックサックを下ろすとナメクジになるのです」
「理屈が通ってるようで全然通ってないことを言うな!! っていうかナメクジだって、別に塩をかけたからって溶けるわけじゃないんだよ!」
詳しいメカニズムは、まあ、羽川にでも聞いてくれ。
「ちなみに、シュガーとソルトとペッパーだったら、わたし迷うことなくペッパーを選びます」
「何の話をしてるんだよ! まあ、口調も似てるしな!」
「別にわたしは、ちっちゃな季節使いの話だとはひとことも言ってませんが」
「くっ……」
小学生の口車に乗せられた!
「しかし冷静に考えてみれば、口車という言葉からは、江戸時代の拷問道具のような響きを感じます」
「感じねえよ!」
「口車とプチ・ブルジョアって似てませんか?」
「いや、似てるけど!」
「そのうち、『口車に乗る』というのを、『くちぐる』と略して言うのが流行りそうな気がします」
「流行るか! そんな言葉が流行る社会なんて嫌だよ!」
人を見たら詐欺師と思え、な世界なのだろうか。
「ロシアの車に乗ることを、『ロ車に乗せられる』と言うのです」
「そりゃ文字にすると似てるけど!」
「クロールだって、ク口ールだと思えば怖くありません」
「怖いか怖くないか判らねえよ!」
くくちーる。
確かに語感はかわいいけど。
「っていうか、そんなに泳ぐのが怖いのか……」
なんだかんだと言いながら、まだ膝の上くらいまでしか水に浸かっていない八九寺。
「いえいえ阿良々木さん、こういうのははじめが肝心なのです。急いては事を自損金と言いましてですね……」
「ええい、じれったい!」
と僕は、先にプールに飛び込むと、八九寺の正面に回り込んで彼女の腕を取る。
「ひえっ!? あ、阿良々木さん、もっと優しく……」
「うるせえ! 火憐ちゃんや月火ちゃんにだってこうやって泳ぎを教えたんだ!」
言いながら僕は、八九寺の腕を引っ張ったまま、後ろ歩きに水中を進む。
「ほら、沈むぞ! バタ足だ!」
「はっ、はい……ぷあっ」
水に顔を沈めそうになりながらも、懸命に足を動かしてついてこようとする八九寺。
「あ、阿良々木さん……もう、ゴールしてもいいですよね」
「まだだ! ゴールはまだ先だ!」
弱音を吐く八九寺を、強引に進ませる僕。そして、25メートル。
「よーし、よくがんばった! やればできるじゃないか」
まだ息が荒い状態の八九寺に、僕は声をかける。八九寺は、顔を手で拭いながら、上目遣いでこちらを見上げる。
「はぁ……はぁ……。阿良々木さん、思ったより強引なんですね。……少し、飲んじゃいました」
「プールの水を、な」
プールの内壁にもたれかかって、呼吸を落ち着ける八九寺。呼吸に合わせて、胸が上下する。濡れたスクール水着からしたたり落ちる水滴。
「唐突に具体的な描写をしないでください。——でも、これならクロールも思ったより早く習得できそうです」
「いや、まだバタ足ができただけだろ。息継ぎとかも憶えなくちゃいけないし、まだまだだよ」
「そうですか……。バタフライならもう少しなんでしょうけどね」
「……!?」
こいつ……バタフライをバタ足の進化形と思ってるのか!?
「? どうしたんですか? そんな、人を『おねがいマイメロディ』が『おねがい☆ツインズ』の続編だと思っていた人を見るような目で見て」
「いや、そんな具体的な目はしてねえよ! っていうかお前、本当は判ってんだろ!」
「当然です。こう見えてもわたし、本当にバタフライは得意なんですよ。まよいバタフライとよんでください。蝶のように舞い、蝶のようにサドンデスとはわたしのことです」
「サドンデスなのかよ!」
案外、蜂である火憐とは気が合いそうだ。
——その後、八九寺に見せてもらったバタフライは、どう見ても溺れているようにしか見えなかったことをつけ加えておく。
そうして、八九寺にバタ足の練習をさせたり、息継ぎを教えたりして、すっかり日が暮れた。閉館時間間際になって、僕達は市民プールを後にした。
途中、練習のどさくさにまぎれて、八九寺の胸を触ったり胸を触ったりしたのは秘密だ。
「やっぱりわざとだったんですか!」
「失礼。噛みました」
「違います、わざとです!」
「噛みまみた」
「わざとじゃありませんっ!?」
「快感でした」
「そんな感想は聞いてませんー!」
たまには攻守交代してみたり。
「違いますよ阿良々木さん、攻めの反対は受けです」
「やめろ! 神原みたいなことを言うな!」
どこでそういうことを覚えるのだろうか。
——と、並んで歩いていた八九寺が、急に立ち止まる。
「それはそうと、阿良々木さん。今日はわたしの無理なお願いにつきあってくださって、本当に感謝します」
「なんだよ、また急にかしこまって」
「熱い仲、わざわざ時間を割いていただいて」
「それを言うなら『暑い中』だ! 熱い仲ってのは僕と戦場ヶ原みたいなのを言うんだ!!」
いや、別に戦場ヶ原との仲は熱くないけど。
むしろ身が凍る。
「何にしても、これでこの夏の目標が達成できました」
「え? いや、まだクロールで25メートルも泳ぎ切ってないし……。そりゃ、また何回か練習すればすぐ泳げるようになるかもしれないけど」
「そのことですが、すみません、阿良々木さん。わたし、嘘をついていました」
「嘘……? お前が、本当は替えのパンツを忘れてきたってことか?」
「それは嘘じゃありません! 何なら今確かめてみますか!?」
そう言って、スカートをたくし上げようとする八九寺。
「いや、ごめん、やっぱいい」
ふう、とため息をついて、八九寺は手をスカートから離す。そして、そのまま後ろ手を組み、僕の少し前に歩み出て言う。
「嘘というのは、わたしのこの夏の目標のことです。それは、クロールで25メートル泳ぐこと——ではなく、そう言って、誰かに泳ぎを教えてもらいに、いっしょにプールに行くこと、だったんです」
えへへ、と、小さく笑って、彼女は。
「……わたし、学校以外のプールって、あんまり行ったことありませんでしたし」
と、続けた。
それなら。
小さい頃に海に行ったという、あの想い出は、果たして本当だったのか。
どこまでが嘘で、どこからが本当だったのか。
でも、僕は、それを目の前の小さな少女に問うことはなかった。
何が本当で、何が嘘でも、
今のこの瞬間は、彼女にとって、そして僕にとっても、
何物にも替えがたいものだっただろうから。
「……八九寺」
「それでは、阿良々木さん」
と、八九寺は、僕の横をふわりと通り過ぎて。
瞬間、プールの塩素の匂いが鼻をついて。
すぐに、それは空中に消えて。
「また、どこかで、お逢いしましょう」
「……ああ。また、な」
「それでは」
そう言って、彼女は、住宅街の中へと消えていった。
後日談というか、今回のオチ。
翌日、いつものように二人の妹、火憐と月火に叩き起こされる僕。そこで、部屋に干してあった水着を月火に見つかる。
「あっ! お兄ちゃん、受験生だってのにプールなんかに遊びに行ってるー!」
「いや、これは遊びに行ったわけじゃなくて」
「ふーん、誰と遊びに行ったんだ兄ちゃん、羽川さん? 戦場ヶ原さん?」
「だから違うって」
「じゃあ確かめてみよー!」
そう言って、僕の制止も聞かず携帯電話を取り出す月火。
「私は羽川さんに連絡を取るから、火憐ちゃんは戦場ヶ原さんねっ!」
そうして、僕が昨日プールに行ったことは、瞬く間に戦場ヶ原と羽川の知るところとなり、急遽三者面談が開かれることとなったのだった。もちろん、僕と戦場ヶ原と羽川の三人で。
「——うーん、でも、たしかに勉強の合間に、気分転換も必要かもしれないよね」
人間が持つという108の煩悩を大晦日を待たずして戦場ヶ原に悔い改めさせられていた僕は、羽川のそんなひとことで我に返る。
「は、羽川……」
「ということだから、今度の日曜日、みんなでプールに行くことを提案します」
「…………」
「賛成します」
「賛成します。賛成二票、白票一票、よって本案は可決されました」
そうして、僕はプールに行く約束を取り付けられてしまった。
しかし、もちろん、悪い気はしない。
羽川の個人授業——よりも、戦場ヶ原の個人授業を受けさせられそうな予感がひしひしとしていたが、それでも。
日曜までに、もし八九寺に出逢うことがあれば、あいつも誘ってやろうと、そう思うのだった。
(終)
2008.09.06 by plateau