西尾維新「新本格魔法少女りすかシリーズ」の二弾目です。そりゃまあ、このタイトルで戯言シリーズの続編だったりしたら、かなりびっくりです(といいつつ、けっこう嬉しかったりして)。
や、いきなりしょうもない戯言を書いたのは、それなりに意味があって。そもそも、このタイトルはなんなのか。「新本格」といったら、普通あとに続くのは「ミステリ」とか「推理小説」であるはず。それが、こともあろうに「魔法少女」ときている。そもそも「新」とつくからには、すべからくその前に新じゃない普通のものがあってしかるべきです。新本格ミステリ以前には本格ミステリがあって、新幹線の前には幹線があって、新谷良子の前には谷亮子があったのです。しかるに、「本格魔法少女」などというものがかつてこの地上に存在したことがあろうか。
まあ、それは純粋に語法上のものとして許容しましょう。推理小説界で通例となっている用語を、魔法少女ものに敷衍したと考えます。では、エドガー・アラン・ポーを祖とし、次いでアガサ・クリスティ、エラリー・クイーン、ジョン・ディクスン・カーなどの作家によって海外ミステリが花開き、江戸川乱歩らの手によって日本独自の「探偵小説」が生まれ、戦後の社会派の台頭の後、綾辻行人によって「新本格ミステリ」が切り拓かれた、というミステリ史を魔法少女ものに適用するとどうなるか。まず、海外ものの代表は「奥様は魔女」でしょう(それ以前の歴史は不勉強により知りません)。それに触発されて戦後日本で生まれた「魔法使いサリー」や「ひみつのアッコちゃん」が、国内魔法少女ものの元祖、いわば「本格魔法少女」と呼べます。となると、「新本格魔法少女」にあてはまるのは、もう「カードキャプターさくら」でしかありえません(この論理の飛躍を許容できるかどうかが、西尾維新の善き読者となれるかどうかの境目だと、わりと本気で思ってます)。
新本格ミステリが、その成立からしてメタなものであったことは、この分野に詳しい方なら自明のことでしょう。綾辻行人氏ら新本格第一世代の作家の多くが、大学の推理小説研究会に所属していた、いわば「ミステリオタク」であったことがそれを示しています。彼らは過去の本格ミステリ作品を偏愛し、それを模倣することが自らの創作活動の原点でした(念のため言っておきますが、この文脈においてそれを否定的に捉えるつもりはまったくありません)。
そして、これと同じ構図が魔法少女ものでも起こっているように思います。かつてのように、純粋に少女向けに作られる魔法少女ものが皆無というわけではありません(たとえば、「魔法少女隊アルス」なんかはけっこうそれに近いかも)。しかし、ゲーム、アニメというメディアで描かれる大半は、それらをメタ化した「大人向け」魔法少女もの、というのが現実です。ちなみに、ひょっとして、その頂点が「魔法少女リリカルなのは」なのではないか、などと私は思っているのですが……。
ということで結論。この「新本格魔法少女りすか」シリーズは、まごうことなき「新本格魔法少女」ものである。そのメタ性は、タイトル自身にも現れています。通読すれば判るとおり、この作品の主人公はタイトルに冠された「水倉りすか」ではありません。これまでの西尾維新の小説とまったく同じように、一人称たる供犠創貴(くぎ・きずたか)こそが主役。そして、彼の智恵によって毎回現れる敵を倒していく、その構図は一見、典型的な魔法少女もののそれと一致しているように見えます。しかし、本来の魔法少女ものが主人公(あるいはその友人たち)の成長を描くものであるのに対し、この作品では、その「成長」の意味合いがまったく異なっています。りすか=リストカットにより作られる、供物であり犠牲たるキズ。傷が癒えても、その部位がより強くなることはなく、ただもとに戻るだけ。りすかについて描かれる、一時的な「成長」の異常さも、この作品が単純な「少年少女の成長物語」ではないことを示していると考えられます。それこそが、この作品の「新本格」たる所以。
いやー、ほんとこの作品、感想書きにくい書きにくい。ということで全編大ボラ解析でお茶を濁してみました。たまに書きたくなるんですよね、こういうの。ちなみに、「ファウスト」Vol.4の感想その2がいつまで経ってもアップされてないぞ! というツッコミは禁止です。
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