すっかり読むのが遅れてしまいましたが。前編「焔の章」の感想はこちら。
これもですね、あとがきを読むと上の話につながるところもあったりして興味深いのですが。
けっきょく、スカイウォーカーとはなんだったのか?
「トルク」に棲む猫たちにとっては死後の世界であり、神聖な対象である「地球儀」へ行こうという夢を追い求め、他人(猫)の夢を、生を砕き、その先にスカイウォーカーが見るものは。
あるいは、「セカイ系」との絡みで言うならば。
セカイ系とは、私見では、共同体幻想が崩壊し、共有すべき(そして交換不能な)「大きな物語」を信じられなくなった、あるいははじめから持ち合わせていない現代日本の若者たちにとって、それよりもっと個人的で、それゆえ、リアルに信じられる、自分と世界との関わり方。
ならば、この「猫の地球儀」という世界の中で生きる者たちにとって、その「物語」とはなんだったのか。それは本質的に交換不能なものだったのか?
さらに、秋山瑞人作品に特徴的に見られるものとして、イラストの特異な使い方というのがあります。文中のイラストが、各章のはじめに一葉ずつ載せられるだけ、という、ある意味ライトノベルの主流からは外れた使われ方をされています(これは「イリヤの空、UFOの夏」でも同じ。その他の作品は未見のため判りませんが)。もちろん、これは前例がないわけではなく、たとえば「キノの旅」とかもそうなんですけど、とくにこの作品では、猫とロボットとはいえそれなりに格闘シーンもある中、その描写にイラストを挿入しない、というのはやはり意図的なもののように思えてくるのです。この作品の最後のイラスト、224ページなんかはめちゃくちゃ凄い。あくまで文章を中心に、読み手の頭の中に世界を構築させてきたからこその効果というか。
秋山節とも言うべき、ひたすらに身体描写を続け、同義表現をくり返し(西尾維新ほど先鋭化されてはいないものの)、その先に、なんともいえない切なさを描く。
そういう意味で、秋山作品は、いっけんきわめてマンガ的/映像的世界を見せていながら、本質はまごうことなき小説のそれなのではないか、と思いました。
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